戦国武将の生き方から学ぶ②(今西) | 東進ハイスクール長野校|長野県

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2017年 11月 13日 戦国武将の生き方から学ぶ②(今西)

こんにちは!

東進ハイスクール長野校の今西です。

 

さて最近は寝床が寒すぎて置いていたスマホがキンキンに冷えてます。

知っていますか?

スキー場など寒い場所でスマホを持っていくと特に何も開いていないのに勝手に充電が減ってしまうことを。

同じことが自宅で起こりました。

60%ほどあった充電が1%になっていました…

 

ところで本日は

私の出生地である九州の武将を紹介したいと思います。

南九州男児の誇り

島津義弘

 

私が最も尊敬する人物の一人です。

島津氏は鎌倉時代から現在に至るまで続く

名家中の名家であり、

戦国期であれば、日新斎や貴久、義久、

幕末期であれば、斉彬や久光などどの時代でも優秀であったため

島津に暗君なしと言われています。

そんな歴代当主の中でも無類の戦上手だったのがこの「島津義弘」です。

彼は数々の伝説を残しています。

①耳川の戦い

②朝鮮出兵(鬼石曼子)

③関ケ原の戦い・敵中突破

超有名な伝説を挙げましたが、これも義弘にとっては氷山の一角といえるでしょう。

本日は③関ケ原の戦い・敵中突破についてお話していきたいと思います。

 

慶長5年(1600年)俗に天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の戦いが勃発しました。

西軍 石田三成(総大将ではない)vs東軍 徳川家康

紆余曲折を得て島津義弘は西軍に属することになりました。

結果は皆さんご存知の通り西軍の敗北で決します。

討死するものもいれば、敗走し処断された将もいます。

この時代は敗者に頗る厳しいのです。

義弘はもともと西軍に与するつもりでなかったため

積極的に軍を展開することはありませんでした。

しかし西軍の一員として戦っている以上

追撃は避けられないものでした。

そこで義弘は前代未聞の退却法を考えます。

それが敵中突破退却です。

文字通りそのまま退却するのではなく、むしろ前進して退却したのです。

敵に背を見せて退却することが恥だという「島津」というプライドからだとか

九州までのより良い退却路を確保するにはが敵中突破するほかないからだとか

様々な要因があるかもしれませんが、

その時点で兵が300人ほどしかいなかったとされる中で

その決断をするのは極めて難しいと私は考えます。

 

東軍はもちろん敵中を突破してくるとは夢にも思いませんから

徳川四天王の井伊直政はその混乱の中で弾をくらい

そのけががもとで数年後死亡しましたし、

本多忠勝も落馬したと伝わっています。

 

とにかく島津は強かった。いや強すぎた。

西軍側の大名で減封されなかったのは島津家ただ一です。

 

勇気を常に持ち続け、兵力差が十倍以上の劣勢の時でもあきらめずに戦った島津義弘。

絶対に勝てないなんてことは絶対にありえません。

時代が違うとはいえ戦国武将から学ぶべきことはたくさんあるでしょう。